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2015年6月4日

二つの終焉の地~浅草今戸・千駄ヶ谷~

皆さんこれから6月に向かいジメジメした季節がやって来ますが、いかがお過ごしですか?
今回は6月にちなんで6月生まれの歴史上有名人、そう新撰組の一番の人気者、沖田総司の二つの場所を巡ってきました。
『6月にちなんで何で沖田総司なんだ。』と突っ込みどころも満載ですが、
なにげに半蔵門から近くに沖田総司の臨終の地がありました。
今から173年前、【『新撰組日誌』よりこの姓名録の天保十三年説をとる。】
1842年(天保13年)6月に彼は生れ、激動の幕末の真っ只中に身を投じ、二十七歳を一期としてこの世から去った一青年剣士が歩んだ人生は、あまりにも短い軌跡でした。
そんな総司の終焉の地は2つの説が有り、1つは総司が療養していた松本良順宅は、浅草今戸神社の中にあったという。「沖田総司終焉之地」という高さ7,80センチ程の碑が立っていました。これは、永倉新八の遺稿に「江戸浅草今戸八幡松本良順先生宿にて病死」とあるのに、信を置いたためだと思います。
(今戸神社境内の松本良順宅で、総司は治療を受けていたという)
★アクセス★
今戸神社
半蔵門駅→三越前駅(半蔵門線)
三越前駅→浅草駅(銀座線)
営団地下鉄銀座線、東武伊勢崎線の浅草駅から徒歩10分
しかし、子母沢寛氏の『新撰組遺聞』などで紹介される近藤勇の養子勇五郎の談話では、臨終の地が千駄ヶ谷池尻橋のわきにあった植木屋「植甚」の平五郎の「離れ座敷」となっている。臨終の場所を巡ってはずっと論争があるが、今は他にもいろいろ史料が発見された結果、千駄ヶ谷説の方が有力となっているみたいです。

総司は、千駄ヶ谷の池尻橋のほとりの植木屋平五郎の離れ家で死んだという。『新撰組始末記』では、ここを「納屋」としている。文久二年改正版の「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」の切絵図の南隅に、池尻と地名があり、植木屋と書かれているそばに水車とある。
この水車は、火薬製造に使用されていなかったのだろうか、蔵とあるから貯蔵場
所であったのか。焰硝蔵から思い浮かぶのは、火薬による数々の大事故である。
江戸の各地で水車を使っての火薬製造所の大事故が多発していたことが知れる。
『武江年表』にある「死傷者七十余名、五体微塵になった者片腕が千切れとんでひっかかったのもあったという。」征討軍の先鋒の迫る江戸市中、焰硝蔵の近くに住む危険を、総司自身十分承知して、そこがめったに人の近づかない、あるいは幕兵の見廻りの厳しい場所であったためであろう。総司が、ここに病める身を横たえ病床に臥ったまま、鋭くなった神経で迫る死の影を見つめていたのだろうか。。。
みなさんいろいろな思いを巡らせながら、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
(この周辺が総司終焉の地?)

フロント 齊藤吉通
★アクセス★
新宿区大京町
JR千駄ヶ谷駅から徒歩6分。新宿御苑の少し東、外苑西通り沿いの周辺に植木屋の離れがあったとみられる。詳細な場所は特定されていない。


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