開催中の展覧会
山王美術館 開館15周年記念展 コレクションでつづる 藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳展-パリを愛し、パリに魅了された画家たち-
- 会期
- 2024年9月1日(日)~ 2025年1月31日(金)
- 休館日
- 火曜日・水曜日(但し、12月29日~1月2日は閉館)
- 開館時間
- 10:00~17:00(入館は16:30まで)
- 会場
- 第1会場 佐伯 祐三
第2会場 荻須 高徳
第3会場 藤田 嗣治 - 入館料
- 一般 1,300円
大学生・高校生 800円
中学生以下 500円
*中学生以下、保護者同伴に限り2名様まで無料 - *山王美術館は日時指定予約制ではありませんが、展示室が混雑し、一定の人数をこえた場合には、入場制限をさせていただく場合がございます。ご理解、ご協力の程お願い申しあげます。
山王美術館 開館15周年記念展 コレクションでつづる
藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳展
-パリを愛し、パリに魅了された画家たち-
山王美術館は2024年に開館15周年を迎えます。
それを記念して開館15周年記念展は、「山王美術館 コレクションでつづる 藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳展」を開催致します。
15年前の開館記念展と同タイトルを掲げた本展覧会。当時より当館の主要作家である、「藤田嗣治」、「佐伯祐三」、「荻須高徳」の新たに加わったコレクションを含む当館所蔵の作品群より選りすぐりの作品を展示します。
藤田、佐伯、荻須の3人は時期は異なりますが、ともに東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後パリに渡り、パリを中心に活動し、独自の画風を築き上げたことに共通点が見てとれます。
展示室3フロアで構成された本展覧会は、1フロアに1作家の作品展示をすることで、より深くそれぞれの作家の生涯や画風の変遷を知ることができ、鑑賞を進めることで3人の世界観の違いを味わうことができます。また、お互いの交友関係にも注目し、同時代に生きた画家たちの関係性をより深く紹介します。
パリを愛し、パリに魅了された3人の画家たちの芸術の世界をご堪能ください。
みどころ1).
「藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳」が描く三者三様のパリ風景
藤田、佐伯、荻須、ともに東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、憧れのパリへ渡った3人が描いたパリの風景画を並べて展示。
それぞれの画家が見つめた対象への眼差しやそこから生み出された画風の違いを見比べながらご鑑賞ください。
みどころ2).
新コレクション16点を初展示
新たに加わった藤田嗣治9点、佐伯祐三4点、荻須高徳3点の絵画を本展覧会にて初展示いたします。
・藤田嗣治:9点
≪パリ風景(モンパルナス風景)≫ ≪少女の顔≫ ≪マドレーヌと風車≫ほか
・佐伯祐三:4点
≪モラン風景≫ ≪米子像≫ ≪アネモネ≫ ≪街角≫
・荻須高徳:3点
≪ポントワーズの船着き場≫ ≪タイユブール通り≫ ≪モンマルトルのサクレ・クール寺院≫
みどころ3).
コレクションのみによる展示構成
山王美術館は開業より収蔵作品のみによる展覧会を15年続けてきました。本展覧会も藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳が描いた収蔵品の中から選りすぐりの作品により、各作家の世界観をご紹介します。ここでしか会えない芸術作品の魅力を余すところなくご堪能ください。
序章
「憧れの街、パリ」「藤田嗣治・佐伯祐三・荻須高徳」が描く三者三様のパリ風景
日本における西洋芸術の受容は江戸時代以前からすでに始まっていましたが、特にフランス芸術が意識されるようになったのは明治時代以降のことでした。明治に入り、文明開化のもと近代化=西洋化という時代の流れの中にあって、西洋美術の中心に位置するパリは芸術家たちにとって憧れの地でした。昭和初期には第一次世界大戦後の好景気を背景にパリに滞在する日本人画家は400人を超えていたとも言われています。
佐伯祐三も例外ではなく、1923年に東京美術学校を卒業すると、その後の進路をフランス行きと決め、早々に家族を連れてパリに向かいます。その当時すでにエコール・ド・パリの寵児となっていた藤田嗣治も佐伯の10年前の1913年にパリに向けて渡航しています。東京美術学校卒業の3年後のことでした。荻須高徳もまた、憧れのフランス行きを現実のものとすべく、日本へ一時帰国していた佐伯からパリでの生活についてアドバイスを受け、1927年、東京美術学校を卒業後の9月、横浜港を出帆します。それぞれが画家として成功することを夢みて、「憧れの街、パリ」へと踏み出した一歩は、期待と希望に満ちた一歩であり、覚悟と決意の一歩でもあったことでしょう。
1910年代、藤田は当時彼が住んでいたパリのモンパルナス付近の風景画を多く描いていました。それは市内の名所旧跡とは違った、町外れの風景でした。本展覧会初展示となる≪パリ風景(モンパルナス風景)≫は自身の画風を模索していた若き日の藤田作品を知ることのできる貴重な1作です。
1926年9月の第13回二科展に出品された滞欧作19点出品のうちの1点にあたる本作は、第一次パリ時代の代表的な作品と言えます。フランス滞在2年目になる1925年、佐伯の描く対象は郊外から徐々にパリ市内の街並みへと移ります。躍るような文字、薄汚れた壁や窓、まっすぐ奥へと伸びる石畳などパリの日常を単なる情景描写に留まらない佐伯独自の画風が見てとれます。
佐伯祐三|1898~1928
1898年大阪の中津の名刹の次男として生まれた佐伯祐三は、大阪府立北野中学校に入学後、赤松麟作の洋画研究所で学びます。中学卒業後は上京し、川端画学校で学んだ後、1918年、東京美術学校西洋画科(現・東京藝術大学)に入学、「なんぼでもデッサン」とつぶやきながら素描に打ち込んだと言います。ともに学ぶ仲間と同様に欧州留学を夢みていた佐伯は、同校卒業後の1923年11月、妻子を伴って憧れのパリへと出発します。1924年1月、パリに到着し、野獣派(フォーヴィズム)モーリス・ド・ヴラマンクとの衝撃的な出会いやモーリス・ユトリロの影響をうけ、石造りのパリの街並みを描く独自の画風を確立していきます。
作家の言葉
自分は今百七枚目の画をかいたよい絵は五、六枚出来た。だがまだまったくアカデミックであるその事を日々なやんでゐる部屋中を狂人の様にしたい 『里見勝蔵宛の手紙 1928年1月8日付』
Topics
佐伯19歳頃の自画像。東京美術学校への入学を目指して上京した佐伯が、藤島武二や岡田三郎助のもとで指導を受けていた時代に描かれた本作からは、佐伯がルノワールやゴッホなどのフランス絵画を研究し、その技法を試みていたことがわかります。まっすぐなまなざしからは画家として踏み出そうとする強い意志が感じられます。本展覧会では、藤田の代名詞ともなった「自画像」、若き日の荻須が支援者へと贈った「自画像」もあわせて展示いたします。
Column 佐伯家と荻須
佐伯が第二次パリ時代をともに過ごしたのは荻須高徳、山口長男、横手貞美、大橋了介でした。東京美術学校時代の4年後輩にあたる荻須と山口は佐伯の一時帰国中にパリ留学について相談する為に下落合のアトリエに訪ねています。1927年10月にパリに到着した4名はモンパルナスの佐伯のアトリエを訪問。荻須は「佐伯さんのアトリエは中二階になっていて、上階で台所ができます。米子夫人は大鍋に一杯のライスカレーをこしらえてふるまってくれました。かわいい七、八歳の彌智子ちゃんもいて、久しぶりの暖かい、おちついた家庭の雰囲気にひたることができて、どんなにこころ慰められたか知れません」とその頃の気持ちを手記に残しています。以後、彼らは佐伯を頼ってアトリエを頻繁に訪ね、交流は佐伯が亡くなる時まで続きました。
荻須高徳|1901~1986
パリを描いた画家として知られる荻須高徳は1901年、愛知県稲沢市に生まれます。東京美術学校で油彩画を学ぶと26歳の時に念願のフランスに渡ります。渡仏翌年にはサロン・ドートンヌで初入選、1930年にはパリの画廊で初個展をする等、画家として順調に歩み始めます。その後、第二次世界大戦の戦中、戦後にかけて一時帰国をした時期を除き、84歳で亡くなるまでパリを拠点に制作活動に励みます。憧れの地で荻須が魅了されたのは、観光客が憧れる華やかなパリではなく、裏街に立ち並ぶ石造りの堅牢な建物や古びて色褪せた壁、薄汚れた石畳、食料品店や雑貨屋などの雑然とした店構えでした。荻須自身、パリに暮らす者として、静かな裏町の何気ない日常の情景を見つめ、建物が積み重ねた長い時間とそこに集まった人々の喜びや哀しみに思いを馳せ抒情を色濃く感じさせる作品を残しました。
作家の言葉
油絵で進む以上は、ヨーロッパへ渡ってヨーロッパの傑作の本物を見たいという気持ちをおさえることができません。 『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』
Topics
「ぼくの一生をふりかえると、最悪の状況におちこんだとき、いつも救いの神があらわれてくれるのです」と自ら語る様に、荻須がパリで画家として成功していく上でいくつもの幸運な出会いがありました。本作は荻須初期の支援者であるリュシアン・バッサンジェに贈られたものです。スイスの宝石商で美術蒐集家のバッサンジェの支援により、1934年にスイスのジュネーヴ市立ラット美術館での個展が実現。こうした幸運な出会いにより、芸術の都パリにおける画家としての足場を、荻須は着実に固めていったのです。
Column 荻須・藤田 日仏文化交流への尽力
1920年代、「乳白色のカンヴァス」でパリ画壇の寵児となった藤田嗣治ですが、パリにおける日本文化紹介の担い手として、自らの編集・挿画による『日本昔噺』をフランスの出版社より刊行します。また、パリで上演される能や歌舞伎などの舞台芸術も手がけ、パリ国際大学都市日本館の装飾画を描くなど、日本とフランスの国際・文化交流にも関与していきます。一方、1948年に戦後初めてフランス入国を許された日本人画家となった荻須高徳は、パリ市による作品買い上げという画家としての活躍に加え、現在、国立西洋美術館に収蔵されている松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽力し、国際人としても活躍していきました。
藤田嗣治|1886~1968
1886年、明治の半ばに東京で生まれた藤田嗣治(レオナール・フジタ)は、世界的な画家となることを志し、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、1913年に単身パリへと渡ります。1920年代には面相筆と墨による黒く細い輪郭線と、なめらかな白い肌のような質感を持つ「乳白色の下地」でエコール・ド・パリの寵児となります。しかし世界大恐慌による欧州の美術業界低迷の影響を受け、1931年にパリでの暮らしを放棄し中南米へ旅立ち、個展を開催しながら旅を続け1933年に日本へ帰国します。1939年に再びパリでの生活を始め、精力的に活動を行いますが、第二次世界大戦による戦況悪化のため、1年余りの滞在で帰国を余儀なくされます。戦後1950年にアメリカを経由しパリに再び帰還、懐かしいパリの風景や子どもを主題とした絵画を数多く描きます。
本展覧会では、パリを愛し画家としての生涯の大半をフランスで過ごした藤田の作品を「子ども」「マドレーヌ」「猫」「風景画」「祈り」の5つのテーマに分けて展示致します。
作家の言葉
私は、フランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は、世界に日本人として生きたいと願う、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。 随筆集『地を泳ぐ』
Column 藤田嗣治と風景画
パリの街並みを描き続けた代表的な日本人画家といえば、佐伯祐三、荻須高徳の名を挙げられる方が多いかもしれません。一方、藤田と聞いて風景画をイメージする人は少ないのではないでしょうか。しかしながら、藤田が独自の画風を獲得し、画家としてパリで進む道を開くための鍵となったのは風景画でした。1917年から1918年にかけて、藤田は都市の周縁部にあたる風景を集中的に描きます。藤田が関心を持ったのは名所旧跡ではなく、定住してこそわかるパリの日常風景でした。1917年、パリの画廊にて初の個展を開催。寂寥感漂う風景画は、第一次世界大戦後の都市開発により失われていく景色への郷愁を誘い、高く評価されました。
藤田嗣治 1886[東京]-1968[チューリッヒ]
1910年東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業、1913年に単身フランスへと渡る。ピカソら前衛的な画家たちと交流するかたわら古典美術を研究、1919年のサロン・ドートンヌでは、初出品作6点がすべて入選するという快挙を遂げる。「乳白色の下地」による独自の技法を見出し、1920年代のエコール・ド・パリの一員として輝かしい名声を得る。1931年に中南米へと渡り、1933年に一時帰国。1939年に再渡仏するが、第二次世界大戦の勃発により、翌年帰国。戦後1950年にニューヨークを経由し渡仏。1955年にフランス国籍を得、1959年にはカトリックの洗礼を受ける。晩年は宗教的主題や子どもを多く描き、自ら設計したランスの礼拝堂のフレスコ画制作に取り組んだ。
佐伯祐三 1898[大阪]-1928[パリ郊外]
中学校在学中に赤松麟作の画塾でデッサンを学び、1917年に上京後は川端画学校で藤島武二に師事する。翌年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、同校を卒業後の1923年にフランスへと渡る。里見勝蔵の紹介でモーリス・ド・ヴラマンクの元を訪れた際に、自身の作風を批判されたことを契機として画風が大きく変貌していく。1925年にサロン・ドートンヌ初入選。1926年に一時帰国した後は、里見勝蔵らとともに「一九三〇年協会」を結成する。1927年にふたたび渡仏し、旺盛に制作活動を続けパリの街角を奔放かつ情熱的に描いたが、翌年持病の結核が悪化し30歳の生涯をとじた。
荻須高徳 1901[愛知]-1986[パリ]
東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後の1927年にフランス留学。渡仏後は、佐伯祐三らとともにパリの下町を描いた。1928年サロン・ドートンヌ初入選。1930年にはパリで初の個展を開催。1934年にはジュネーヴで個展を開催した。サロン・ドートンヌ会員に推挙されたものの、戦況悪化のため1940年帰国。帰国後は新制作派協会の会員となる。1948年に日本人画家として終戦後はじめてフランス入国を許可され再びフランスへと渡り、以後パリを中心に制作活動を再開し、人びとの生活の営みを感じさせる街並みや建物を好んで描いた。