山王美術館

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富本 憲吉 Tomimoto Kenkichi
1886-1963

奈良県に生まれ、大阪にて没。
1904年東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科に入学し、建築と室内装飾を専攻する。在学中の1908年ロンドンに私費留学し、ウィリアム・モリスなどの思想に影響を受け帰国。在日中のイギリス人陶芸家バーナード・リーチとの交友を機に陶芸へと傾倒。郷里に窯を築き楽焼の制作をはじめる。1926年には東京・祖師谷へと居を移し作陶活動をつづける。1927年国画創作協会会員に推挙され、工芸部の創設に尽力。1944年には東京美術学校の教授となるが戦後はこれらの官職を辞し京都へと移った。晩年、色絵に金銀を加えて同時に焼き付ける金銀彩を完成し、羊歯文様などによる華麗で典雅な独自の作陶様式を確立。「模様から模様をつくらず」という信念のもと、独自の形と模様を追求し続けた。

富本憲吉《色絵陶箱》1937年、山王美術館蔵

色絵陶箱

1937年
高さ:7.5㎝ , 幅:13.5㎝ , 奥行き:13.5㎝

Box with a Karahana-so Design

1937
h:7.5㎝ , w:13.5㎝ , d:13.5㎝

正方形の白磁の蓋に唐花草が染付され、箱の側面にはフリーハンドの調子を活かした青と白の斜線模様、別の側面には鮮やかな濃い赤・黄・緑・白のストライプ模様が小気味よく配されています。作家が今まで以上に装飾的な意匠に挑戦していることがよくわかる作例です。

富本憲吉《銀彩色絵大皿》1942年、山王美術館蔵

銀彩色絵大皿

1942年
口径:35.0㎝

Dish,Overglaze in Silver

1942
d:35.0㎝

富本憲吉《色絵陶箱》1951年、山王美術館蔵

色絵角瓶

1951年
高さ:25.5㎝

Vase with Color Drawing

1951
h:25.5㎝

第二次世界大戦後、富本憲吉は芸術家として得た公的な地位や公職を全て捨て、一介の陶工として再出発する決心をし、単身、郷里の安堵村へ戻ります。その時の胸中には東晋の詩人・陶淵明の「帰去来の辞」(帰りなん、いざ)の詩文が秘められていたようです。束縛を嫌って官職を辞任し、田園で自分らしい生き方をした陶淵明と、心機一転新たな一歩を踏みだした自身の姿を重ね合わせていたのでしょうか。本作には、陶淵明の漢詩「飲酒」の中から「広大なる宇宙に比べると人の人生は短いのだから納得のいく生き方をしたい」と歌った詩文が配されています。