山王美術館

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河井 寬次郎 Kawai Kanjiro
1890-1966

島根県安来に生まれ、京都にて没。
1910年東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科へ入学し、板谷波山の指導を受ける。卒業後は京都市立陶磁器試験場に入り技手として勤務。釉薬の調合をはじめとする研究にあたる。1917年試験場を辞して独立し、自家製陶をはじめるとともに、釉薬調整の腕を請われ五代清水六兵衛(後の六和)の釉薬顧問を務める。1920年京都・五条坂の清水六兵衛の窯を譲り受け鐘渓窯と名づけ、自らの作品制作を開始する。はじめは中国・朝鮮の古陶磁を範とした作品を発表したが、1924年に濱田庄司を介して柳宗悦と親交を結び、柳、濱田とともに民藝運動を推進した。作風は多岐にとみ、実用性を重んじながらも、多彩かつ力強い造形を生み出した。

河井寬次郎《辰砂扁壺》、山王美術館蔵

辰砂扁壺


高さ:16.0㎝

Jar with Red Glaze


h:16.0㎝

辰砂釉とは色釉の一種で、透明な基礎釉に少量の銅を入れ還元焼成することで赤く発色する釉薬で、寬次郎がとりわけ好んだ釉薬の一つです。また、胴部には筒描きの線を活かした文様が描かれています。筒描きとは一般にはイッチン盛り等と呼ばれ、竹筒やスポイトのような物に泥漿や釉薬を入れ、それを器の表面に盛り付ける装飾技法です。寬次郎は筒描きに用いる赤いゴム製のスポイトについて、その見た目や形は好ましくはないが、それまでの竹筒の道具などと比べるととても便利で、そこから生まれる技術は無尽蔵であると語り多用しました。

河井寛次郎《三色打薬手壺》、山王美術館蔵

三色打薬手壺


高さ:24.5㎝

Jar with Handle and Splashed Three-color Glaze


h:24.5㎝

1920年、京都五条坂の清水六兵衛の持ち窯を譲り受け、本格的に作陶活動を開始した河井寛次郎。1926年には柳宗悦や濱田庄司と共に日常の中に「用の美」を見出す民藝運動を創始し、更に戦後になると実用からも既存の形からも離れて自由で奔放な造形表現に達しました。五条坂の粗土のままの粘土を用いたざらざらとした手触りの取っ手付きの壺に三色の釉薬を激しく打ちつけることで生み出された本作は、古希の頃の作品と考えられます。寬次郎はあえて型による成形を好みましたが、それにより鋭い稜線をもつ明確な形の美を生み出しました。

河井寬次郎《三色打薬扁壺》、山王美術館蔵

三色打薬扁壺


高さ:24.5㎝

Jar with Splashed Three-color Glaze


h:24.5㎝