山王美術館

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岸田 劉生 Kishida Ryusei
1891-1929

東京に生まれ、山口県徳山にて没。
1908年に白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事し外光派の表現を学ぶ。1910年に創刊された文芸雑誌『白樺』によってフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌなど後期印象派に感銘をうけ、高村光太郎らとヒュウザン会を結成する。その後、アルブレヒト・デューラーら北欧ルネサンスの影響を受けた写実的で重厚な作風に転じ、1915年中川一政らと草土社を結成し、重厚かつ克明な写実表現は画壇に大きな影響を及ぼした。1918年の《麗子五歳之像》にはじまり、没年までさまざまな姿の愛娘、麗子像を制作した。晩年は宋元画や初期肉筆浮世絵に傾倒し、東洋的な味わいのある洋画や日本画を制作した。

岸田劉生《麗子肖像》1920年、山王美術館蔵

麗子肖像

1920年
コンテ・水彩、紙
51.5×35.2㎝

Portrait of Reiko

1920
Conte and watercolor on paper
51.5×35.2㎝

素早く明確にとらえた木炭素描に劉生好みという着物の文様や帯などに効果的に水彩が施されています。劉生自身は「日本画具の朱を用ひる。或る感じのあるものが出来た」と日記に記していますが、きれ長の眼は心の奥深くを内省しているかのようも見え、6歳の童女像を超えた、深い精神性と神秘性が宿っています。麗子像はこの後、中国・宋元画や初期肉筆浮世絵の味わいを加えたものなど、劉生の東洋美術への接近に伴い変容を遂げていくこととなります。

岸田劉生《お手玉》1924年頃、山王美術館蔵

お手玉

1924年頃
紙本彩色
57.5×38.6㎝

Playing Beanbags

c1924
Color on paper
57.5×38.6㎝

「京都にて」の落款から、関東大震災後に京都へと移住した1923年10月から1926年3月の間に描かれたと推察されます。この時代、劉生は東洋古美術の鑑賞と蒐集に熱中。「江賀海鯛(えがかいたい)先生」と自称し、なかでも江戸期の絵師・岩佐又兵衛の肉筆浮世絵には、金策に追われながらも大金を注ぎ込むほどでした。又兵衛作品の「生々しい」、「でろり」とした美しさに魅了され、現実のもつ生々しさを描写した深いリアリズムを感じた劉生。絵画を蒐集するのみではなく、又兵衛風の構図を試みるなど自身の作画に反映させていきます。なお、又兵衛風に描いた麗子立像の看板下絵に酷似していることから、本作のモデルも麗子ではないかと考えられます。